観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
鼠坂
細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあったといわれます。上は植木坂につながります。
善福寺のイチョウ
目通り幹囲約9m、高さ19mの善福寺のイチョウは俗に逆さイチョウと呼ばれています。樹齢約700年と推定され都内で最古のものとして国天然記念物の指定を受けています。伝説によると、善福寺に立ち寄った親鸞が、寺を去るとき、持っていたイチョウの杖を境内の土に立てて、この枚を根づかせてみせるぞ、という意味で「念仏の求法、凡夫の往生もかくの如きか」といったといわれ、はたして杖は見事に根づいて、今日みるような巨木に育ったといいます。なお、この木は、終戦後にいったん枯死したかに見え、天然記念物の指定を取り消されましたが、住職らの尽力で異例の再指定となり奇跡的によみがえった事実があります。
船路橋
平成19年に開通した船路橋は、もともとは路面電車の車輛工場への入出庫に使う橋でした。今でも路面にレールが浮き出ているのが分かります。唯一残る、廃止された都電のレールの痕跡です。
船光稲荷神社
面している通りは、長者丸通りと呼ばれている通り。この辺りは昔、入り海だったそうで、長者丸という船が遭難しかかった時に、この稲荷神社から光が差し、船は助かったのだそうです。そこからこの神社の名前がついたそう。この辺りが海だったなんて、なんだか信じられませんね。光が差す神社・・・隠れたパワースポットでお参りをし、心を落ち着かせてみるのもいいですね。
浅野内匠頭終焉の地
江戸時代、この辺りは奥州一之関藩(岩手県)田村右京太夫の上屋敷がありました。内匠頭は江戸城松の廊下での刃傷沙汰があったその日のうちに、この屋敷で切腹させられました。上野介を打ち取れなかった無念の思いを、辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に託して。日比谷通りに面して「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建っています。
浅野土佐守邸跡(赤坂氷川神社)
元禄のころは浅野土佐守の屋敷がありました。内匠頭が切腹した時、夫人の瑶泉院(ようぜいいん)はここ実家の浅野式部小輔長照(あさのしきぶしょうゆうながてる)のところに引き取られました。講談などで語られる「南部坂雪の別れ」に出てくる南部坂はここから東北方にあります。
泉岳寺梅
忠臣蔵でおなじみの播磨赤穂藩藩主・浅野家の菩提寺である泉岳寺には、赤穂浪士にまつわる幾つかの梅の木が残されています。美しい梅の花を愛でつつ忠臣蔵の世界に浸れます。
泉屋博古館分館
2002年秋に、六本木一丁目の泉ガーデンの一角にオープンした新しい美術館。京都市左京区に本館があり、江戸時代から続く住友家のコレクションを保管、展示しています。館名は江戸時代の住友の屋号『泉屋』と千年前に中国で皇帝の命により編さんされた青銅器図録『博古図録}に由来するそうです。
千躰子育地蔵尊
子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなんで、子供の無事成長、健康を願い昭和50年より順次奉安されています。毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が行われます。
仙台坂上交差点
左折すると二の橋交差点、直進すると明治通りの四の橋交差点に出ます。
仙台坂
坂の南部一帯が、仙台藩伊達家の下屋敷であったところから、その名をよぶことになりました。
絶江坂
承応2年、坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきました。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり、坂名に変わりました。
赤坂消防署発祥地
青山ツインビルの裏側に細長い公園があり、その西端に 発祥碑があります。白い石に金属プレートが貼り込まれ、上に赤銅色の立方体の彫刻が乗った ユニークな形をしており、 火消しの纏(まとい)をかたどったものだといいます。
赤坂御用地
現在の住所で東京都港区元赤坂2丁目のほぼ全域を占める赤坂御用地は江戸時代、紀州徳川家の上屋敷(紀州藩赤坂藩邸)があったところで、明治維新後、政府に接収されて帝室(現在の皇室)に献上されたものです。赤坂御用地は元々、他の御料地などと同様に皇室財産でありましたが、第二次世界大戦の敗戦と日本国憲法の発布とともに日本国有に移され、国有財産たる皇室用財産として皇室の用に供せられています。明治6年に失火により皇居が焼失した際は、明治天皇がこの地に移り、明治21年に新皇居(明治宮殿)が落慶するまでの間、ここを皇居としていました。赤坂御用地の北東に隣接して迎賓館(旧赤坂離宮)があり、訪日した外国賓客の接遇に用いられました。
赤坂Bizタワー
「赤坂Bizタワー」(地下1階~地上2階)2階の一角には、アートな空間があります。縁日で見かけるようなヨーヨー風船を思わせる球体が並んだ作品は、トーマス・シャノンというアメリカのアーティストによるものです。
赤羽橋
昭和49年3月架設、長さ17.50m、幅30mの鋼橋。古川にかかる橋で、町名は橋名によってつけられたといいます。
石村近江墓
石村近江は号を浄本、通称を源左衛門といい、京都から江戸に移住して三味線を完成させました。「浄本近江」と呼ばれた名工でした。境内には三味線伝来の歴史と石村家の業績を簡単にまとめた碑文があります。そのため同寺は別名「三味せん寺」とも呼ばれています。
青木坂
江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったために呼ばれるようになりました。
青松寺
文明8年太田道灌が開基し、慶長5年現在地に移りました。墓地は愛宕山に続く高台にあり、入り口近くに人の形に作られた槍持勘助の墓があります。槍持勘助(本名芦田義勝)は、美作津山藩(岡山県)主松平越後守宣富の足軽で、当時越後守の槍はとても長くて重く、倒せば打ち首になるという大変な代物。これを持つ苦労を後に残すまいと、義きょう心の強い勘助は槍の柄の下方を切り、自ら切腹して果てました。元禄14年9月のことであったといわれています。松平家では再び切られるのを恐れて、槍の柄に鉄の筋金を入れたといいます。勘助の墓は奴地蔵とも呼ばれ、下の病によく効くと願をかける人が増え、全治した人は竹筒にお酒を入れてお礼をしたといわれます。広い境内には都旧跡に指定されている江戸時代の儒者、井上金峨の墓や法輪大観音像、竹林、湧水などがあります。
青山霊園東地区墓参
佐野きみ(童謡「赤い靴」のモデル」)/尾崎紅葉(作家)岡本綺堂(作家)/宮本百合子(作家)/齋藤茂吉(作家)/志賀直哉(作家)などのお墓巡りができます。
青山霊園西地区墓参
藤島武二(画家)/岡田三郎助(画家)/キヨッソーネ(版画家)/星新一(作家)/国木田独歩(詩人、作家)などのお墓巡りができます。
青山霊園
明治7年に造られた日本初の公営墓地。広大な敷地には、大久保利通、犬養毅、市川団十郎、志賀直哉、尾崎紅葉など多くの著名人が眠っています。約 500本のソメイヨシノが咲く桜の名所で、並木道はみごとな桜のトンネルになります。大きな古木も見ごたえ十分。
青山通り
三宅坂から明治通り交点(渋谷駅東口)までの区間で、千代田区と渋谷を結び、間には赤坂、青山、表参道、骨董通りなどがあります。東宮御所、明治神宮外苑、青山学院など、緑も多く、面する建物としては、国際連合大学、こどもの城、青山学院、Ao (複合商業ビル)などがあります。会社も多く立地し、オフィス街やファッション街としての人気が高い通りです。
青山運動場
外苑前駅下車、3出入口から徒歩5分です。野球やテニスを楽しむことができます。
西町インターナショナルスクール
1949年ライシャワー博士婦人の妹、松方種子女史により創立され、多文化教育を実践しています。校舎の一部には大正10年ヴォーリス設計の松方正熊邸がそのまま使用されていて、平成12年に東京都が選定する歴史的建造物となりました。毎年10月から11月頃父母らにより催されるフードフェアには自慢のお国料理が並びます。