観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
山田耕筰の碑
マンションの敷地内に、山田耕作が「からたちの花」を作曲した南風荘の跡地があります。石碑には「からたちの花」の楽譜が書かれています。
三分坂
急坂のため通る車賃を銀3分(さんぷん:百円あまり)増したためという。坂下の渡し賃1分に対していったとの説もあります。さんぶでは4分の3両になるので誤り。
三田台公園
すぐ近くの伊皿子貝塚遺跡より発掘された貝層断面や縄文時代の竪穴式住居などが復元展示されています。原始・古代の人びとの生活の様子を知ることのできる遺跡公園です。
三田薩摩屋敷(島津家)跡
江戸の薩摩屋敷は上屋敷・中屋敷・蔵屋敷などがありましたが、最も中心的だったのが三田の上屋敷でした。篤姫も二年余りを上屋敷で過ごしたといわれています。 「薩摩屋敷跡」の石碑は、NEC本社敷地の北側に小さく建てられていますが、当時の屋敷はこの周辺に広大な面積を持っていました。現在この付近にはオフィスビルが立ち並び、往時の面影はありませんが、近くには芝公園や増上寺もあり、都会のオアシスとなっています。
三田国際ビル
敷地は江戸時代は有馬中務家拝領本屋敷、明治以降は陸軍工廠が存在し、その後長らく空き地となっていましたが、大正時代に済生会が建設され、昭和40年代まで済生会中央病院および三田警察署が位置していました。その後、済生会中央病院立て替え費用捻出のために三菱地所に売却されました。三田国際ビルの前の通り(桜田通り)は正面に東京タワーを臨める場所である事や、同ビルの前の歩道に十分な空間がある事などから、テレビドラマのシーンなど頻繁に登場しています。
三光坂
本来は坂下専心寺にあった三葉の松にもとづき三鈷(さんこ:仏具)坂だったといいますが、日月星の三光などともいいます。
三解脱門
増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和8年(1622年)に再建されました。3つの煩悩「貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)から解き放たれる(解脱)門です。国の重要文化財で、高さ、間口とも約20mあります。
鮫ヶ橋坂
明治時代まで坂下に鮫河橋という橋があり、この辺りを鮫河橋町と呼んでいたことからこの名が付きました。
雑魚場跡(本芝公園)
江戸前期より、本芝・金杉の漁民達は東海道で雑魚を中心とした市を立て鮮魚を商いました。芝の名を冠した「シバエビ」 漁が代表的漁業でしたが、幕末以降衰退して海苔の養殖場へ変わり、昭和37(1962)年、遂に漁業権を放棄しました。
薩摩藩邸焼き討ち事件跡
慶応3年、戊辰戦争の発端となった「薩摩藩邸焼き討ち事件」が勃発し、屋敷は全焼。跡地は「薩摩ッ原」と呼ばれました。明治に下ると、いまの農事試験場にあたる「三田勧業局育種場」の一部となり、競馬も行われていたとか。
札の辻交差点
すぐ横にはJRの線路(新幹線、東海道線、山手線、京浜東北線等)が走っており、芝浦方面には「札の辻橋」が架けられています。この場所は東海道から江戸への正面入口であり、元和2年には、芝口門という門が建てられました。札の辻という名称の由来は、ここに高札場が設けられて、布告法令などが掲示されたことによります。当時この場所からは江戸湾が眺められ、絶好の景色であったといいます。
桜坂
明治中期に新しく作られた道筋で、坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからこの名がつきました。 桜坂からスペイン坂へと続くアークヒルズの外周道路に、約150本のソメイヨシノが植えられています。サクラのトンネルは、夜にライトアップされ毎年多くの人が訪れます。
済海寺(最初のフランス大使館跡)
安政6年8月フランス公使宿館の設置となり、公使ド・ベルクールが駐在しました。寺側の記録「外国書願留(がいこくしょねがいどめ)」1冊(区指定)が残っています。
最初のプロイセン使節宿所跡(広岳院)
広岳院は慶應元年から一時期、プロイセンの宿として利 用されました。プロイセンはこの付近(この一帯は二本榎とよばれていた)の朗惺寺 や承教寺、三田小山の永隆寺などを候補とし、その中から境内の広さや建物の規模な どを考慮して選んだといいます。現存する広岳院の本堂は、弘化年間の火事の後に再建されたもので、幕末の外国公館として使われていた建物の現存例としては唯一のものです。
最初のイギリス公使館跡(東禅寺)
イギリスの初の公使館となった東禅寺。三田・高輪周辺のお寺は、フランス、ロシア、プロシア(ドイツ)、オランダなどの公使館となりました。
紺屋坂
こうやざかとも呼びます。この坂付近に紺屋(染物屋)があったのでこう呼んでいました。また江戸時代、坂のがけ下がごみ捨て場だったことからごみ坂ともいいました。
骨董通り
古美術品店や陶磁器店、画廊などが点在。竹製品や葉巻などの専門ショップ、カフェもあります。毎週土曜日には西洋アンティークのマーケットが開催。古道具探しに出かけてみてはいかがでしょうか。
黒門
御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門であった旧方丈門です。3代将軍家光公の寄進・建立とされています。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55年に通用門として日比谷通り沿いに移築しました。
国立新美術館
世界的建築家・故黒川紀章氏の設計による特徴的な美術館の建物と、外周の桜並木の取り合わせが美しいスポットです。
国立科学博物館附属自然教育園
大都市「東京」の中心部にあって今なお豊かな自然が残る、都会の中のオアシスともいえる貴重な森林緑地です。自然を活かした植物園が整備され、四季にわたり様々な草花や、昆虫などの生きものを身近に観察できます。
高輪南町児童遊園
砂場や滑り台があり、小さなお子さんが遊ぶのに適しています。園内は砦のような階段があり、地域の方の生活通路として利用されています。
高輪接遇所跡(泉岳寺前児童遊園)
泉岳寺といえば忠臣蔵ですが、幕末には、その門前にイギリス公使館が置かれていました。イギリス公使館が置かれた場所は、攘夷の志士の襲撃をしばしば受けたため、移転を繰り返しました。慶応元年には、泉岳寺の門前に移転し、正式な名称は高輪接遇所といいました。泉岳寺は赤穂義士の墓がある寺として、江戸時代から名所となっていましたが、明治後は門前のイギリス公使館も新たな名所となり、錦絵にも描かれています。イギリス公使館としての役割を終えた後は、新政府の外国人接遇所として外国使節との交渉などに使用されました。現在の泉岳寺前児童遊園がその一部ですが、赤穂義士があまりにも有名なためか、門前に公使館があったことは、ほとんど知られていないようです。
高輪消防署二本榎出張所
高輪警察署前交差点に面した高輪消防署二本榎出張所は、昭和8年12月28日に落成したもので、近代建築の遺産(ドイツ表現主義)として東京都文化デザイン事業により保存建築物に指定されています。配置されている消防車両は、ポンプ車1台、化学車1台、補給車1台です。庁舎内部は見学可能です。
高輪稲荷神社
港区高輪にある稲荷神社です。祭神は宇賀御魂命(ウカノミタマ)です。宇賀御魂命は、日本神話に登場する穀物の神です。神名の「ウカ」は穀物・食物の意味で、「ミタマ」は神秘的な生命力を意味しています。
高野長英隠れ家跡
複合文化施設スパイラルビルの建つ場所が「高野長英の隠れ家跡」です。蘭学者・医者であった高野長英は、幕府の対外政策を封刺した「夢物語」を書き投獄されましたが、伝馬町獄舎炎上を機に逃げ、各地を潜行しました。顔を焼いて人相を変え、沢三白という偽名を使っていましたが、この地で捕まりそうになり自害しました。