観光
港区を訪れたら外せない魅力的な観光スポットです。
亀塚公園
「亀塚公園」という名のとおり、園内には「亀塚」が保存されています。その名にちなんだ亀のスプリング遊具や園名板なども設置されています。平成19年に斜面地に階段を整備し、園内を通って三田3丁目と4丁目を行き来することが可能になりました。また、園内には都心では珍しくなったカントウタンポポを保全しており、毎年4月から5月の開花時期に合わせ、開放しています。
亀塚稲荷神社
霊亀を祀った祠があり、太田道灌がこの地に物見台を置くに当たってこの祠を守護神として創建したと言われます。
亀塚
古墳時代の土器の破片が多数出土し、円墳ではないかと考えられています。平安時代の更級日記(さらしなにっき)に見える竹芝寺の伝説地とも。
紀伊国坂
坂の西側に江戸時代を通じて紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったところから呼ばれました。小泉八雲の「怪談」に出てくる坂としても知られ、都内でも風趣に富んだ坂の一つです。赤坂離宮前から弁慶堀に沿って元赤坂1丁目方向へゆるやかに下り、弁慶堀の真ん中あたりから南側が港区。江戸城外堀のことを別名弁慶堀と呼ぶのは、寛永年間に堀割工事を請け負った弁慶小右衛門の名をとったものと伝えられます。この弁慶堀にかけられている弁慶橋は明治22年に造られ、擬宝珠は旧諸橋から集められたものです。
寄席坂
坂の途中の北側に、明治から大正にかけて、福井亭という寄席があったために、寄席坂とよびならわすようになりました。
雁木坂
階段になった坂を一般的に雁木坂といいますが、敷石が直角に組まれていたから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書きます。
巌谷小波の住宅跡
明治3年生まれの童話作家。独逸学協会学校を卒業後、尾崎紅葉らの「硯友社」に加わっています。明治24年「黄金丸」を発表し、創作童話作家としてお伽噺などを作りました。また、世界各国の童話の紹介にも力を尽くし、大正15年にはデンマーク国二等勲章を受けました。この住居跡は明治40年に購入し、改築を加えて昭和8年に亡くなるまで住んでいました。その後、人手に渡り、漫画家清水昆氏宅となっていましたが、現在は会社に変わっています。また、記念碑(写真)が増上寺本堂裏にあります。
海岸通り
東京湾のすぐ近くの通りです。東京湾周辺では、潮干狩りや伝統漁法にのっとった簀立を楽しむことができます。
霞坂
明治初年に霞山稲荷(現在の桜田神社)から霞町の町名ができ、そこを貫通する道が明治20年代に開かれて霞坂と呼ばれました。
岡本太郎記念館
万博の「太陽の塔」で知られる岡本太郎が亡くなった後、50年近く生活をしていたアトリエ兼住居が記念館となりました。庭には表情豊かなオブジェが、またアトリエには未完成のキャンバスが飾られている様子は、まだ彼が生きているかのようです。エネルギーに満ちあふれた空間で、芸術の真髄を堪能することができます。
於多福坂
坂の傾斜が、途中でいったんゆるやかになって、また下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられました。
円通寺坂
元禄8年付近から坂上南側に移転した寺院の名称をとりました。それ以前に同名の別院があったともいいます。
榎坂
江戸時代はじめ、浅野左京大夫幸長(ヨシナガ)がこのあたりで人口湖の造成(いわゆる赤坂溜池)に成功しました。家臣の矢島長雲は、この功績を後世に残そうと、その堤に「印の榎」を植え、これが、坂名と町名の起源となったと伝えられます。
榎坂
江戸時代より前の古街道を示す榎があったと推定される。坂下から東京タワー方向へ登る永井坂を榎坂と記す資料もあります。
詠唱発祥の地
終戦直後の焦土と化した昭和21年、増上寺山内の浄土宗宗務所において、宗門教化のための詠唱は、檀信徒を勇気づけ、彼らのこころの安穏を取り戻しました。そして、増上寺を詠唱発祥の地としました。 浄土宗吉水流詠唱は、お念仏をお唱えし易くする為の「お念仏の助業」です。お念仏をお唱えするという事は、阿弥陀仏に帰依し、全てをお任せするという事であり、お念仏は阿弥陀仏の極楽浄土へ往生するための五種の行の一つ「称名正行」です。五種正行とは、阿弥陀仏を中心とした読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養をいい、この五種の中で「称名正行」は阿弥陀仏の本願にかなった行いとして「正定の業」であり、他の四種は「称名正行」へ導く為の行としてあることから、「助業」とされております。
永坂
麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいいます。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていません。
永井坂
江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったところからこの名が付きました。
烏枢沙摩明王
「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」は、受胎祈願や安産祈願、厄除け祈願の本尊として信仰されています。不浄のものを浄化して、清める力を持つといわれています。正山寺の正門脇に祀られており、通りかかるたびに思わず手を合わせたくなります。
芋洗坂
由来は芋問屋があったからという芋洗坂と、天明年間末頃までうどん屋があったためという饂飩坂。2つの坂が交わる辺りにしゃれた公衆トイレが建っています。
稲荷坂
坂下北側に円通院があり、その境内の稲荷への門があったための坂名。坂上に江戸城中清掃役の町があり掃除坂といいます。
一本松坂
源経基(みなもとのつねもと)などの伝説を持ち、古来、植えつがれている一本松が坂の南部にあるための名です。麻布七不思議のひとつ一本松を目印に、『一本松坂』『狸坂』『大黒坂』『暗闇坂』の4つの坂に分かれています。
伊能忠敬測地遺功表
明治22年、東京地学協会が日本地図を作った測量の先駆者・伊能忠敬の功績を顕彰して建てたもの。当時の物は戦災で失われたため、現在の遺功表は昭和40年に再建されました。丸山古墳の頂上にあります。
伊皿子坂
明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えられるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ〔意味不明〕の変化ともいいます。
暗闇坂
麻布七不思議のひとつ一本松を目印に4つの坂に分かれます。人を化かす狸が出たという狸坂と七福神のひとつ大黒天をまつる大法寺がある大黒坂。樹木が生い茂り昼でも暗かったという暗闇坂の途中には、美しい赤レンガ造りのオーストリア大使館があります。松にちなんだ一本松坂をずっと上ると七福神の毘沙門天をまつる氷川神社前に出ます。
安養院
安養院に最初の芝区役所が設けられ、明治11年11月に開庁し、初代区長に相原安次郎が任命されました。当時の芝区は桜田・三田・白金・高輪の地域で、戸数14、 757戸、人口58861人でした。芝区役所は、その後愛宕町に移り、さらに大正15年に現在の港区役所の位置に移りました。